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弥生時代(今からやく2400年前から1700年前までの700年間)
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世界史の窓より

さあ、弥生時代(やよいじだい)のお話しです。
この時代(じだい)の有名(ゆうめい)なムラの遺跡(いせき)が、吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)登呂遺跡(とろいせき)です。 紀元前4世紀(きげんぜんよんせいき)ころから紀元3世紀くらいの約700年間を弥生時代といいます。これ以降、大和朝廷(やまとちょうてい)の形式(けいしき)の古墳(こふん)の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)がつくられる古墳時代になります。
縄文時代とか弥生時代とか古墳時代とかは、ずっとあとの人が時代の名前を付けたものですからさかい目などありません。
弥生土器は、縄文土器よりも高い温度(おんど)で焼(や)かれた、より硬(かた)い土器です。技術が高まったのでしょう。模様(もよう)も簡単(かんたん)なものになっています。 早くたくさん作る必要があったのでしょうか。

すでに縄文時代から日本人の祖先(そせん)は、水田や畑でお米をつくっていたことを学(まな)びました。陸稲(りくとう)と言います。
しかし、教科書では、稲作(いなさく)が弥生時代から始まったように書かれています。そして縄文時代に稲作が始まった証拠(しょうこ)の菜畑遺跡(なばたけいせき)のことが書かれていません。
なぜでしょう?
 もしかしたら縄文人は、おくれた未開(みかい)の野蛮人(やばんじん)で、すぐれた文化(ぶんか)は、シナ大陸でおき、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)をへて日本に入(はい)ってきたのだという、昔ながらの説(せつ)を、みなさんに教(おしえ)えたいのでしょうか?とんでもありません。
 すでに縄文人は、高度(こうど)な文明(ぶんめい)を築(きず)いていたことは、三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)で学びました。

 弥生時代に入って、農具(のうぐ)にも鉄がつかわれるようになり、作業がはかどり、食料(食料)が豊(ゆた)かになったので、人口(じんこう)も増(ふ)えました。
始めは鉄(てつ)が豊富(ほうふ)な朝鮮半島南部(ちょうせんはんとうなんぶ)から鉄の板を輸入していたといわれていますが、後に中国地方( 鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県の5県)で、 日本独自のたたら製鉄(せいてつ)の技術(ぎじゅつ)が発達(はったつ)し、鉄を日本でたくさんつくれるようになりました。
日本は、世界でも砂鉄(さてつ)が豊富(ほうふ)な国です。
日立金属のホームページには、九州の福岡県で発見された 鉄の斧が縄文時代晩期(紀元前3~4世紀)のものであることが書かれています。日本最古の鉄でできた斧です。
教科書には鉄の歴史が書かれていませんから読んでください。
また、日本の製鉄のはじまりは、弥生時代にはじまったかもしれないこともかかれています。
 指導者が生まれ、ムラができます。栄養があり、保存ができるお米で人口が増えていきます。共同(きょうどう)で丘を平らにしたり水路をつくるなど開墾(かいこん)をしてさらにお米の収穫が増え、人口も増えます。 いくつかのムラがあつまって小さなクニ(国)もできます。開墾をした時の残土(ざんど)は水路を利用して運(はこ)んだかもしれません。どこへ運んだのでしょう。
開墾した残土を積み上げたところが古墳のもとになったという人もいます。
そして次の時代の古墳時代につながっていきます。