さあ、弥生時代の次は古墳時代(こふんじだい)のお話しです。
弥生時代にはムラができ、いくつかのムラが集まってクニができました。3世紀の後半になると大和(やまと)いまの奈良県(ならけん)のあたりに
豪族(ごうぞく)たちを中心とする強大(きょうだい)な連合政権(れんごうせいけん)が誕生しました。たくさんのムラやクニがしだいに統一されたのです。
これを大和朝廷(やまとちょうてい)と言います。いまのご皇室(こうしつ)の御先祖(ごせんぞ)です。
このころ中国や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)では国と国とが争っていた時期(じき)でした。
わが国では3世紀(せいき)ころからお山のようなお墓(はか)がつくられました。これを古墳(こふん)と言います。
特にご皇室の形式(けいしき)の古墳を
前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん) と言います。世界最大の広さの古墳が大阪、堺市にある
16代目の天皇様の仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)です。
今は草や木にに覆(おお)われていますが、はじめは表面は石が敷(し)き詰(つ)められ、
周囲(しゅうい)には埴輪(はにわ)が並べられていました。教科書には今作るとこれぐらいの時間と人数、費用がかかると記述されていますが、
実際に計算した人が、数字はあまり意味がないとおっしゃっています。
古墳は最初からお墓だったのか、それとも開墾した残土を盛り上げておいて、後からお墓にしたのかまだよくわかりません。
この頃はまだ天皇という称号(しょうごう)はありませんでしたので、天皇はオオキミ(大王)と呼ばれていました。漢字は大きい王という字をあてました。
しかし、わたくしたちは、習慣で初代(しょだい)神武(じんむ)天皇様までさかのぼって天皇の称号で呼びます。
古墳から剣(つるぎ)、鏡、勾玉(まがたま)などが出土(しゅつど)します。これを副葬品(ふくそうひん)と言います。歴代天皇さまが地位の証(あかし)として
いまでも継承(けいしょう)されている三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)もまた鏡、剣、勾玉です。
教科書だけではわからないのですが、じつは古墳は近畿(きんき)地方よりも関東に多いのです。朝鮮半島南部にもあります。
これはかつて日本列島にいた縄文人は、東北・関東、北海道に多くすんでいたことと関係があるかもしれません。この頃は今よりも気温が高かったことは前にお話ししました。
大阪で大型のワニの化石がでるくらいですから。
これも教科書には書いていないのですが、初代神武天皇様は、もともと日向(ひむか)、今の宮崎県から大和に遠征(えんせい)してこられたと
古事記(こじき)、日本書記(にほんしょき)に書かれています。
また各地に神武東征伝承(じんむとうせいでんしょう)があります。カムヤマトイワレヒコの命(みこと)が即位(そくい)して初代の神武天皇さまになられました。
これが旧暦(きゅうれき)元旦で今の暦では2月11日に当たります。
それでこの日が、わが国の「建国記念の日」になりました。建国記念日といってもよいのです。
歴史の教科書には、必ずといってよいほど「邪馬台国やまたいこく」や「卑弥呼ひみこ」が出てきます。理由は左の図の、大陸にあった魏(ぎ)という国の歴史書に邪馬台国や卑弥呼のお話が書かれているからです。
最近の研究では、魏の歴史書を書いた人は、日本に来たことがなく、邪馬台国や卑弥呼が本当に日本にあったのか、いたのか疑問に思っている人もいます。
卑弥呼と呼ばれた女王がもし本当に日本にいたら、卑弥呼神社がどこかになければなりません。しかし本当の卑弥呼神社はどこにもありません。
そもそも邪馬台国の邪とか卑弥呼の卑とは卑しい文字を当てています。魏は当時の日本の国を悪い字の邪(じゃ)をあてたり、女王を卑しい(いやしい)人とバカにしていたわけです。
邪馬台国は、やまとこく、そして卑弥呼は日の巫女(みこ)と想像(そうぞう)してみるとおもしろいですね。
教科書にのっているこの絵は、大勢のひとが奴隷(どれい)のように使われたと説明されることがあります。別の学説もあります。もともと古墳は土地を開拓したとき、丘を削ったり、堀を掘った時出る土をためていた盛り土という説です.
人々が後からコメの収穫が増えて感謝のため陵墓(りょうぼ)にしたと言うことです。陵墓とは天皇様のお墓です。