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縄文時代2 三内丸山遺跡 発見の衝撃
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 さあ、縄文時代2のスタートです。

それでは、この三内丸山遺跡をマウスでクリックしてください。

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この高(たか)くて大きなやぐらは三内丸山遺跡のシンボルです。学校の教科書にも「三内丸山遺跡と縄文のむら」とかかかれています。

しかし、大事(だいじ)なことが書かれていません。

だいじなこととは、この三内丸山遺跡の発見(はっけん)がものすごい衝撃的(しょうげきてき)な大発見(だいはっけん)だったのです。

つまりいままでの縄文時代のイメージを大きく変えることになった大発見だったのです。ひとびとは、クリを大量に栽培して主食とし、イモ、エゴマ、ヒエ、ひょうたんを栽培していました。
農耕のためにはスキやクワなどの木製(もくせい)の農具(のうぐ)が使われました。

つぎはこの三内丸山遺跡の2つの動画を見てください。
 あの大きな六本柱は、何でしょうか? あの太い栗の木はどうやって切り倒したのでしょうか? 建物は、たて穴住居(あなじゅうきょ)だけではありませんね。高床式(たかゆかしき)のもの、神殿(しんでん)のようなものがありますね。
縄文土器で煮て何をたべていたのでしょうか?
釣り針がありましたから魚ですね。貝も、あわびも。小動物(しょうどうぶつ)の野ウサギやむささびを食べていました。
小さな弓矢や槍(やり)しか見つかっていません。武器(ぶき)ではなく、小さい獲物(えもの)をとっていたわけです。
つまり武器が見つからないのは戦争(せんそう)がなかったと言うことです。村中(むらじゅう)みな親戚(しんせき)で災害(さいがい)では助け合ったことでしょう。
針があったということは糸があったのでしょうか?すると布(ぬの)を縫(ぬ)っていたのでしょうか?
すると教科書の絵のように縄文人は、毛皮をきてばかりいたのではない?
縄文時代は今よりも気温が高かったから夏は毛皮では暑かったはずですね。 布とは麻(あさ)の織物(おりもの)だったのでしょうか?縄文土器の底には、布のあとがあるものが多いそうです。